Tuesday, July 26, 2005

No Show

今日ショウちゃんは来なかった。朝一番で連れてきてくださいと、言ってもらったはずだが代わりに電話が来て「昨日よりは調子がよさそうなので、自宅で様子を見てもいいですか。」と飼い主さんが言う。「いいですか?」と聞かれても「いいですよ」とは答えられない。
昨日の治療でよくなっているのだとしたら、今日手を抜いてまた悪くなる可能性が高いし、自宅で様子を見てもよいほど状態がよいわけではない。だから、そのままそう答える。そして「最終的な判断は飼い主さんの気持ち一つなので、よくお考えになって決めてください。」と付け加える。治療はしたほうがよい。でももしその治療が苦痛になっていたり、治療にも関わらずあと数時間で最期の時を迎えるのだとしたら、誰でも病院で死なせたくはないだろう。治療すべきか自宅で様子を見るべきか、飼い主さんは再び悩み始めてしまう。
気持ちのうえでは自宅で様子を見たいけれど、何かあったらどうしよう。その迷いは受話器ごしでもよくわかる。「じゃあ、本当は治療を続けたほうがよいのだけれど、午前中様子を見て、状態があまりにも悪くて苦しそうなら連れてきたらどうですか?そして、もし、このあと調子が落ち着いていたら、金曜日に顔だけ見せてください。」すると、飼い主さんの声に明るさが戻った。
受話器を置いたあと、しばらく自問自答する。台風が近づいているせいで病院に来る人はほとんどいないから、自問自答の時間もやたら長い。もしかしたら、もっとしてあげられることがあったのではないだろうか。私の診断力がいたらなかったのだろうか。あんな風に言ったけれど、本当にそれでよかったのだろうか。そして、ショウちゃんの飼い主さんは、この後、後悔するようなことはないだろうか。
動物とともに暮らせば、たいていの場合、人間よりも先に動物の寿命がくる。早かれ遅かれ、いつかは別れの時に直面する。そのときに、飼い主が後悔と自責の念で苦しむことほど、獣医師としてつらいことはない。別れの悲しさ、寂しさというのは仕方ないとしても、後悔や自責の念は、たいていの場合獣医師が関わっている。もっと早く治療をしていれば、もっと早くあの検査をしていれば、あるいは、やるだけのことはしたけれど治療は苦しいだけで可哀想だった、とか。飼い主の後悔や自責の念を、獣医師は少しでも救ってあげることができるはずだ。なぜなら、飼い主と動物の病気との闘いを一番近いところで見ていた、サポーターだからだ。
金曜日、ショウちゃんに会えるだろうか。会えないかもしれない。もしも、金曜日までにショウちゃんに最期のときが訪れるとしたら、どうか、苦痛を与えないようにと願わずにいられない。

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