Saturday, January 15, 2005

マルちゃんの死に思うこと

動物病院というのは程度の差こそあれど、基本的には具合の悪くなった動物が連れてこられるところである。それに、命には寿命というものがあるので、たとえどんなに優秀な獣医師であっても、治すことができない病気も少なくない。
ここ最近、私が担当するワンニャンたちの経過が悪いのは、私の腕が未熟なせいなのだろうか。いやいや、動物の一生に立ち会おうとすれば、いつかはその時期にぶつかってしまうのは、やむを得ないことであろう。
昨日の午前中、マルちゃんのお父さんから病院に電話があった。前日の朝、マルちゃんが急死したということだった。マルちゃんは来週月曜日に大学病院で手術を受けるため、今日血液検査を受けにくる予定だった。遺体は大学病院に献体され、今後の貴重な情報とされることになった。
電話口でお父さんが「もう少し早く行っていれば・・・」とおっしゃっていた。確かにそうかもしれない。マルちゃんは、私が治療に当たる前に他の病院で1ヶ月間肝臓が悪いということで、肝臓の薬だけを飲んでいた。それがよくならないということで来院されたのであるが、その症状も血液検査の結果も、一目でクッシング症候群と呼ばれる、副腎皮質機能亢進症であることは明らかであった。しかし、ホルモン検査をいくつか経なければ、その病気だと明らかにすることはできないし、その治療に使われる薬はその病気でなければ使用するのは危険な薬だった。そのため、獣医療域で通常行われている検査を
2つ省略するための裏わざとして「内因性ACTH」というものを人間の検査機関で測定することにした。そのためにややこしい英語文献を読まなければならない、という手間がかかったが、検査をひとつしてはその結果を待って次の検査にすすむということに比べればはるかに、時間はかからない。
そして始められた治療であったが、マルちゃんは従来一般的である内科治療に対して、副作用を起こしやすく、その薬の継続は難しかった。となると、最近新しく使われてきている薬を導入するか、大学病院でMRIをとって、下垂体の状態を調べるか、ということになる。
実は、治療の最初のほうに、大学病院に行くことを希望するか尋ねた事があった。頭の片隅に、下垂体腫瘍のことがちらりとひっかかったからである。しかし、飼い主さんは「ここでできるだけのことをしてください」とおっしゃったのだった。お仕事をされているお母さんにとって、武蔵野市にある大学病院まで犬を連れて行くというのは、大変なことなのだ。
もし、もっと早期にMRIをとっていたら、助かったかもしれないが、この病気が下垂体性とわかっても、初めからMRIをとるというのは、まだ一般的ではない。それはMRIを設置している施設は限られてほとんどが大学病院でしかなく、費用も5万円から8万円かかる。この病気でMRIをとる、というのは診断・治療としては限りなくBestだろうが、常にベストな方法をとれるとは限らない。それは、この病気に対する獣医師の知識や理解度(ヤブ獣医はいくらでもいます)、そして飼い主側の意思により、そのベストな方法が取られないこともあるから。
なんにしても、マルちゃんの死は残念なことだった。

今年の4月に大学病院の腫瘍科研修医になり、2つの病院をかけもちするようになって、どれくらいの動物の死にめぐりあってしまったか、もう数え切れない。それは今までの平均?を大きく上回っている。仕事をしているどちらの病院でも、診察や治療を仕切るような状況になるため、それだけ難しい症例を任されるようになった、ということでもあるのだろう。特に、なぜか昨年の4月以降、大学以外でも腫瘍の治療にあたることが多かった。この10年、腫瘍の抗がん治療など、数えるほどだったのが、今年はその数すら大きく上回っている。そして、その分、死に立ち会うことも多くなるのだ。
このこは、もしかしたら私に出会わなかったら死ななかったのだろうか。ほかの先生が治療していたら、助かったのではないだろうか。そんなことはないとわかっていても、もしも自分が死を引き寄せていたら、と思うと、胸の痛みが倍増する。
バンコクにいたときに、去勢手術を勧めた犬がいた。もし、手術をするならあまり高齢になってからではないほうが、よいですよ、と私は言った。その犬はそれからほどなくして手術を受け、そしてその翌日、私は飼い主の方からその犬が亡くなったことを知らされた。その後のかなり長い間、私はその犬が私に出会わなかったら死ぬこともなかったと、苦しい思いをずっと抱えていた。もちろん4年たった今でも忘れることはできない。
その思いを和らげてくれたのは、誰あろう、その飼い主の方であった。新しく家族になった犬はパピークラスを経て、現在では弟分をクールに見守る立派なJRTとなっている。何より、新しい家族を迎え、飼い主の方が生き生きとされていることが、私の苦しみを取り除いてくれた。そして、今では亡くなったあの子に感謝している。彼がいなければ私はその方に会うことはなかったし、この事件をきっかけに私は自分自身の獣医師としてのスタンスを確立することになった。バンコクの飼い主さん向けにホームページを立ち上げたのも、今でもメール相談を受けたりするのも、それらのことがあってこそだと、私は思っている。
動物の命は限られていて、それは神様でもない限り、変えることはできない。獣医師はその限られた命の、生活の質を向上、あるいは維持するために、医療という側面から動物と飼い主をサポートする役割を担っている。そして、それを通じて、誰かをHAPPYにすること、それが私の一番望むことであり、そのためには、質の高い獣医療を提供できる獣医師でい続けなければならない。
担当している動物の調子が悪かったり、試験勉強がすすまないからといって、私はなんてバカなんだろうと嘆いている場合ではないのである。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home